古楽器スターターのページ

その6:良い楽譜、悪い楽譜


古楽器を弾く人の多くは何らかの教則本を使っていることでしょう。
また先生にレッスンを受けている方も多いと思います。

古楽器は決してとっつきにくい楽器ではありませんから、
大抵の人はしばらくすると基本的な奏法を大体マスターし、タブラチュアにも慣れてくるでしょう。
レパートリーの知識も増えてきて、自分でも楽譜を入手するようになってくるでしょう。

大変頼もしいことです。その調子でどんどん行きましょう!

ただ・・・ここで1つ注意するべきことがあります。
それは使用する楽譜の選択です。



ファクシミリとエディション
古楽(器)の楽譜には大きく二つがあります。
当時書かれた(印刷された)楽譜のファクシミリと、現代人によって書き直されたエディションです。
結論的にいうなら、使用するのはどちらの楽譜でも構いません。
ただ、エディションを使う場合は、その編集者が古楽の専門家で、責任をもって編集しているものに限ります。



何故楽譜の選択は重要か
楽譜には沢山の情報が含まれています。
音のみならず、曲のタイトル、運指、装飾音、フレーズの記号など、
どれも良い演奏(に向けての練習)には欠かせない貴重な情報です。

楽譜にミスがあったり、情報が不十分な場合、折角の練習も実を結びません。
間違って練習したことの矯正には時間も努力も数倍かかります。
折角練習するのでしたら、最短で最上の効果を上げましょう。
良い楽譜の使用はその第一歩です。



インターネットのフリーロード楽譜の問題
最近はネット上でも古楽器の楽譜を無料公開しているものが多くあります。
図書館などがオリジナルの楽譜をそのままアップしてあるのは大変便利です。
どんどん利用しましょう。

問題はタブラチュアが編者により書き直されているものです。
私が検分したところでは、ネット上のフリー楽譜の殆どすべてには多くの間違いが見られます。

フリー楽譜の作成者は音楽の専門家としての訓練を受けていないのが普通なので、
当然といえば当然です・・・

いくつか例を挙げましょう。

サンスのパッサカリア
ガスパル・サンスの(バロック)ギター曲集からイ短調のパッサカリア。

上はオリジナル譜の冒頭です。
読みやすいイタリア・タブラチュアで、モルデント(横になった )、
トリル(T)、ヴィブラート()などの装飾音の指示も明快です。

下はアメリカ?の某サイトで掲載しているものです。
タブラチュアをモダンギター式に書き直しているのはまあ良いとして、
五線譜の音価は滅茶苦茶です。
装飾音はトリル以外は無視されており、そのトリルも書き落としや位置の間違いが多くあります。

このページはネットで[Sanz tablature]と検索すると上位にヒットするサイトです。
バロックギターの初心者をmiss-leadingするものと言ってしまって差し支えないでしょう。
制作者は軽いノリで作っただけで悪気はないのでしょうが・・・



ド・ヴィゼのシャコンヌ

セズネィ手稿譜よりド・ヴィゼのテオルボのためのシャコンヌです。
手書き譜ですが、大変読みやすい筆跡で書かれています。
装飾音のみならず、タイ、スラー、レガートなどの奏法、また左手の運指にまで
細かな指示が行き届いています。
ド・ヴィゼ自身の演奏に非常に近いと思われる貴重な楽譜です。

下はリュート関係では有名なサイト(フランス)に載せられているもの。

先のサンスの例に比べると一見良い感じではあります。
しかし、レガート記号や貴重な運指の指示などは全て無視されています。
オリジナルの装飾音記号も恣意的にか無知のためか混用、変更されています。
不完全なだけでなく、演奏する人間を混乱させる楽譜です。



メッリのカプリッチョ

メッリのリウト・アッティオルバートのためのカプリッチョ。
変則調弦によるなかなか面白い作品です。
上のド・ヴィゼなどの場合と違って、装飾音などの記号は書かれていないため、
編集も容易に出来そうです。
下はやはりフランスのサイトからです。

全曲をタイプセットで書き直しただけですが、
大きなミスを犯しています。

この作品は、末尾にカデンツアに当たる即興的フレーズがあります。
全曲中でもっともカッコいい箇所です。
それが・・・上のエディションではばっさりカットです。
そしてそれに関する説明は一切ありません。
このエディションのみを見た人間は、これで完全な形だと思うでしょう。



カトーのファンタジア

ダウランドの[Varitie of lute lessons]の第1曲。
ルネサンス・リュートの為の最も重要な曲集の1つですが、
この曲集はミスプリントが多いことでも良く知られています。
この作品の場合、最初の音が(コースを)間違って印刷されています。
テーマはミーソーラ♭ーラードと繋がるのですが、
冒頭の音は第4コースではなくて第5コースであるべきものです。
リュート界では非常に有名なミスプリントの1つです。


なのに・・・ああ、下のフリー楽譜ではまったくオリジナル通り?です。
編者のリュート音楽に対する無知あるいは無関心を象徴しています・・・


まだまだ多くの例を挙げることが出来ますが、
念のために書いておくと、上の例は私が意図的に「悪い例」を選んだものではありません。
インターネットで検索して無作為に選んだ4つの例に全て問題があったということなのです。
考えてみれば恐ろしいことです・・・

現時点では、
「ネット上のフリー楽譜は使うべきではない、使うと結局自分が損する」
と、考えて良いようです。


また、講習会などでしばしばお目にかかってしまうのですが、
自分の先生からもらったという出所不明のコピー楽譜を使用している生徒さんもおられます。
先生からいただいたということで安心して使ってしまいがちなのですが、その場合でも原典の確認は行いましょう。
先生自身がよく知らない場合や典拠が疑わしい場合、やはりそのような楽譜は使わないのが賢明です。


良いエディションの見分け方
良いエディションを選ぶ目安として、
1:古楽の専門家によって編集され、
2:冒頭もしくは末尾に編集の方針/校訂報告(editorial notes)が載せられている

を念頭に置くと良いでしょう。

   
編集方針/校訂報告の例3つ
左:ポールトン編集のダウランド全集
中:新バッハ全集のバッハのチェロ組曲
右:カーチス編集のモンテヴェルディの「ユリシーズ」


無論、こういった楽譜にもミスや書き落としが皆無というわけではありません。
しかし、少なくとも専門家の編者が時間と手間をかけ最善を期しているという点では、
先に挙げたフリー楽譜とは信頼度は比べ物になりません。
そして、専門家がかけたその時間と手間に対しては、
使用者は適切な代価を払うのが当然ではないでしょうか。



音楽と文化と商業
私がフリー楽譜の台頭を危惧するのは、その情報が信頼の置けないものであるからだけではありません。
世の中には、古楽を自分の一生の仕事の対象として、
日夜こつことと古い楽譜に取り組んでいる音楽学者、演奏家、編集者、出版者が居ます。
そういった人たちの仕事を正しく評価して、ユーザーが楽譜を購入していかないと、
そのうち、そういった仕事を行う人は居なくなり、
良いファクシミリや信頼できるエディションの入手はどんどん難しくなってくるでしょう。

文化を支えるのは、プロアマ問わず我々末端のユーザーに大きくよることを
ここで強調したいと思います。

同じことは演奏、録音、楽器製作など音楽の各分野にも言えることです。

「ただほど高いものはない」のは確かですし、また「安物買いの銭失い」にならぬよう、
初心者の頃から志は高く持ちましょう
それが結局は自分自身のレベルを上げて、より音楽を楽しめるようになる近道です。



付録:クラシックギター経験者のみなさんへ
クラシックギターを弾いていて古楽器を始められた方は、
初めはタブラチュアに戸惑うことが多いと思います。
しかし、タブラチュアにはかなり簡単に慣れることができますから、
すこし集中して読む練習をすることを勧めます。

クラシックギター経験者が往々おこしがちな間違いとしては、
クラシックギター用に書かれた(編集された)五線譜を使って古楽器を弾いてしまうことが挙げられます。
五線譜を使うとすぐに曲を弾くことができますから、
その方向に走ってしまうのは無理ないのですが、これは避けましょう。
古楽器においては五線譜よりもタブラチュアが記譜法として絶対的に優れています。
また、たとえ古楽器の専門家によるものでも、編曲は間違いなくオリジナルからかけ離れています。
タブラチュアが読めるとルネサンス/バロック時代の無尽蔵とも言えるオリジナル作品に手が届きます。
折角、古楽に興味を持ったのですから、この機会に是非タブラチュアに慣れてしまいましょう!

竹内太郎の「本気のバロックギター」(現代ギター社)より
左はムルシアのオリジナル、右は竹内によるモダンギター用編曲




付録その2:ファクシミリの出版社および取り扱いショップ

ミンコフ:フランス音楽に強い
http://www.minkoff-editions.com/

シャントレル:ギター、リュート関係
https://www.chanterelle.com/shop/

SPES:イタリア音楽に強い
http://www.spes-editore.com/

ブロード・ブラザーズ(パフォーマーズ・エディション)
http://www.broude.us/Catalogues/EarlyMusic2006.pdf

セヴェリヌス:イギリス・リュート手稿譜のシリーズが貴重
http://www.severinus.co.uk/(Boethius press)

テクラ:ブライアン・ジェファリのギター関係楽譜出版社

http://www.tecla.com/


フゾー:古楽器の教則本のシリーズあり
http://www.editions-classique.com/partitions-classique.php?r=1

トゥリー:リュートの実用エディションが主
http://www.lautenist.de/TREE2WEB.PDF

OMI:ファクシミリのショップ、在庫多し
http://www.omifacsimiles.com

アカデミア:日本の貴重なショップ
https://www.academia-music.com


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