バロック時代のピッチについて 

現代のバロック音楽の演奏にはA=415、392、440、466(ヘルツ)などが、
クラシカルでは430近辺のピッチが使われることが多いです。

しかし、これらは現代人がモダンピッチから半音刻みに便宜的に決めたものであって、
例えば実際にヴェルサイユで392ヘルツぴったり!が使われていたわけではありません。

時代と国にもよりますが、同じ時期の同じ都市でも複数の異なるピッチが併用されており、
もっと言うと、「ピッチを厳格に定める」習慣すら実はありませんでした。
音程とはそれぞれの機会(occasion)で異なっていて当然で、
同じオーケストラが午前と午後でピッチが異なるなんてこともごく普通だったのです。

で、ソロの場合は自分が演奏しやすいピッチを選べば良いのですが、
アンサンブルの場合でも、同じ都市においてもピッチ・スタンダードは2種(以上)ありました。
代表的な例がカンマートーンとコーアトーンです。
17世紀初頭のイタリアではカンマート−ンはコーアトーンより高く、リュートは低いコーアトーンの楽器でした。
バッハ時代のドイツではコーアトーンの方が高かったのですが、リュートはやはり低いカンマートーンの楽器でした。

つまりリュートやバロックギターなどのピッチは低めに調弦されるのが普通で、
楽器のサイズ(弦長)もそれに従って決められました。
ちょっと乱暴ですが現代の我々が通常使用しているピッチよりおおむね半音から全音くらいは低かったと考えてもOKです。
つまり弦長60センチのG(A−440)リュートは実際にはFかF♯に、
弦長70センチのバロックリュート(A−415)の第1コースはEかEフラットになります。 

低いピッチ、低い張力でガット弦を張ると、楽器を鳴らすことだけでなく修辞的に語らせることが容易になります。

ではピッチの違う楽器とアンサンブルする際にはどうしたか? 解決策は3つあります。

1:)アンサンブル用の楽器を別に用意する。(アーチリュートやテオルボなどは主にこの役割)
2:)ソロ用の楽器のピッチを弦を変えずに上げる。張力が上がるがアンサンブルではより音量を求められるため、
かえって良い効果になる。
3:)移調する。

どれも歴史的文献に言及されています。
バロック時代の人にとっては、ピッチというのは常にフレキシブルに考えるべきものでした。
例えば二つの異なったピッチで演奏する必要のある職業演奏家が、
どちらにも対応できる中間的な弦のゲージを選んで使用しているのはごく普通のことでしたし、
フルートなど管楽器に多くのピッチの違う替管が製作されたのも周知の通りです。我々も是非倣いたいものです。


音律と調性と音高につい
466ヘルツで演奏する必要があったとして、では415ヘルツの楽器を全音上げて移調して弾くのはどうか?
これは可能ですが基本的にはあまりやらない方が良いことです。なぜならば調性感が変わってしまうからです。

絶対的な音の高さはバロック音楽においてはぜんぜん重要なことではありませんでした。
重要なのは調性感です。
調性感は各音程が異なる古典調律の場合明らかに聞き取れ、それが作品のキャラクターに寄与しています。
つまり作曲家が選んだ調性には理由があるのです。それは音の高さには基本的に関係ありません。

例えば絶対音感が全くない人でも、また演奏ピッチが何であれ(440でも415でも420でも380でも)、
耳が良い人は古楽器の演奏を聞いて調性を当てることが出来るはずです。
ハ長調とニ長調では音の響きも内包するレトリックもまるで異なります。
バロック時代の楽曲の調性にはそれぞれ意味が持たせられています。
従ってバロック音楽を演奏する人は絶対音感はまったく必要ありませんが、
和声の響き、調性感を聴き取る耳のよさを持っていることは必須です。

定評のある古楽器オーケストラのCDをかけてみて、調性を当てることができるかどうか試してみましょう。
たとえすぐに出来なくとも、音楽的な耳を持っている人はある程度の練習で当てられるようになるはずです。


移調楽器としてのリュート
しかし、例えばバッハ時代のリュートは移調楽器としてアンサンブルに使われることもありました。
有名な例はバッハのヨハネ受難曲のリュート・オブリガート付きアリオーソです。
これは変ホ長調、♭3つの「三位一体」のキイです。しかしバロックリュートにせよアーチリュートを使うにせよ演奏は可能ですが、
開放弦をあまり使えないため作品がリュートパートに要求する「諦念に満ちながらも伸びの良い音」にはなりにくいのです。
歴史的には全音低いカンマ−トーンのリュートが使われたようです。
つまりリュート奏者はへ長調で弾いていたのですね。
へ長調はリュートにとってはもっとも伸びやかで誠実な調ですから、
バッハが聖なる調である変ホ長調のアりオーソにカンマートーンのリュートを使用したのは、まさに天才のなせる業だと言えます。


専門家とは?

プロの演奏家をやっていると、しばしば移調演奏の要請がきます。
移調された楽譜がある場合も無い場合もあります。
歌手が声域の関係で移調を要求するのはOK、楽譜がなくともその場である程度は移調できないとプロとは言えません。

しかし例えば次のような例もあります。
・・・以前日本でモンテヴェルディのオペラ公演に参加した際、
A=466のヴェネチアン・ピッチだと聞いていたのですが、送られてきた楽譜は原曲を全音高く移調された楽譜、
つまりA=415の楽器を使うことを前提にしていたのです。

これには驚きました。・・・他の演奏者がこれを拒否するどころかむしろ歓迎していることにはもっと驚きました。
つまり、演奏者の多くは楽器を日頃はA=415に調弦していてA=466に上げることを好まないため、
移調楽譜が作られたわけです。
日本では非常によく知られた古楽オーケストラの話です。

僕は自分のテオルボとギターの弦を交換し466に調弦しオリジナルの調で演奏しました。
移調楽譜は調性感がまるで変わってしまっているため、非常に変な響きに見え(聴こえ)ます。
その楽譜を使用することは僕には不可解でした。音楽の内容が要求するものと響きが合致しないからです。

「バロック音楽の専門家」とは、そういう際に「融通の利く」人ではなくて、
移調楽譜を使うことに抵抗がある・・・強烈な違和感を感じられる人であるべきだと思います。


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